[マルガリータ街 8番通り 某番地#305]

 シャワーコックをひねって、お湯をとめる。鏡に映る、生白い体と右の二の腕の周りにある繋ぎ目を模したタトゥー。雑に縫い合わせ、真っ赤な肉が糸のあいだから痛々しく覗いている風のそれは昔、彫り師に掘らせてやるかわりに格安で彫ってもらったものだ。

 バスルームを出て、水滴を拭い、ボクサーパンツを穿くと髪を乾かす。ドライヤーを置いて、M字にカットしてある前髪をワックスで軽く整える。それから部屋に戻り、手鏡を見ながら垂れ目を黒のアイラインで囲った。右手のマニキュアも一部剥げていたから、黒く塗りなおす。

 モテるから、という理由ではじめたエモファッションは素で自分の趣味になってしまった。なんとなしに窓に目をやり、ベッドへ寄りかかっていた体を立ちあがらせて、近寄ってマルガリータ街8番通りを見おろす。深夜だけどネオンでビカビカしているから、行き交う人々がよく見える。男しかいない。そしてアパートメントのすぐ前にある、ビカビカに加わっているダサい名前のバー《New★World》ではボクの恋人、コスタが働いている。新世界でもなんでもないだろう、ここじゃ。

「はやく、朝にならないかなあ……」

 思わず、そう独りごちる。バーに行きたいけど、ボクはコスタの仕事の邪魔をしてしまうだろう。コスタが仕事に行ったのは二、三十分前だ。なのにもう抱きしめてもらいたいし、キスしてほしい。日が落ちているときは下品に賑わっているのに、日が出ると嘘のように閑散とするマルガリータ街と同じく、夜はボクも忙しかったはずなのに、今は寂しくて、暇で仕方がない。幸せなことなのだろうけど。

 窓から離れて、ベッドに寝転がる。起きたところだ、当然眠くはない。ぼーっと天井を眺めながら、なんとなく昔のことを思い出した。脳内がヒステリックな女の声と、男の怒声で満ちる。


 ゴミだらけで、狭くて臭い部屋だった。ボクはそこで膝を抱えて、寝室から響いてくる母親――以後、女と呼ぶ――の豚みたいな鳴き声を聞いている。女はようやく男を伴って――男の顔は頻繁に変わった。誰が父親に該当したのかわからない――寝室を出ると、お腹を空かせているボクにレトルトの食品かスナック菓子を渡し、自分は男と一緒に外食に行った。子供の頃、ボクの日常でよくある光景のひとつ。ほかなんて知らないし、これはオカシイだなんて当時は思わなかった。当たり前だと思っていた。

 女は機嫌が悪いとき、なにかにつけてボクを叩いて、長く伸ばした爪でひっかいた。でも気まぐれに抱きしめて、頭を撫でて、キスしてくれるときもあった。でも、自分の愛人がボクに悪戯していても、ちっとも助けてくれなかった。男の人たちは乱暴で、ボクは殴られ蹴られ、十歳くらいで処女を失った。女はそんなボクを見て、煙草を吸いながら笑って言った。

「エディ、あなたはなかなか可愛いんだし、そのうち男娼(ストリートボーイ)にでもなってあたしを養ってよ」

 ボクは乱暴な男たちより、この女が世界でいちばん大嫌いだ。

 ……ああ、そういえば愛人たちのなかにはたまに優しいお兄さんもいたな。とくにジョージお兄さん。散らかった不潔な部屋を掃除して、ボクに食事を作ってくれた。女に、ボクに対する接し方や育て方について叱っていた。学校に行かせてやれ、とか言っていたっけ。ボクの初恋の人。

 物心ついた頃から、察していた。ボクは男の人が好きなんだと。女の豚の声が漏れてくる寝室のドアを見ながら、女を抱いている男のほうを想像して変な気持ちになっていた。床に広がっているポルノグラフィー、目がいくのは女体より、硬い筋肉をもった男、赤くぬめった唇にくわえられている、たくましいペニス。……ジョージお兄さんになら悪戯されてもいいとほんのり思っていたけど、お兄さんは優しいからそんなことしてこなかった。

 そのうち、ジョージお兄さんは女からフラれてしまった。女の新しい愛人から殴られて追い払われてしまった。それからボクが十二歳になった頃、女は男と出ていって、帰ってこなくなった。

 家の食料を貪り尽くし、数日が経つとフラフラする頭の中、浮かぶのはジョージお兄さんの顔。また少し経って、浮かんだのはなぜかあの豚女の顔。抱きしめられて、頭を撫でられて、キスをされたことを死にかけながら思い出していた。あの女にとっては、ただペットを可愛がるのと同じ感覚だっただろうに。壁に手をついてなんとか立ちあがり、倒れそうな体で部屋を出た。食べ物を盗むつもりで近所のコンビニエンスストアに入った瞬間、気を失った。

 なんで急に、生存本能が強く働いたのか、その理由はあまり考えたくない。ボクは保護されて、施設に入った。母親らしい女は捜されたようだけど、見つからなかった。もう、男にでも殺されていることを願う。


 通いはじめた学校とやらは最悪だった。周りの能天気な奴ら――休日は家族とどう過ごしただの、そんな会話が耳に入ってくるたびボクが信じていた家族像と違いすぎて腸が煮え繰り返った――と馴染めず、勉強もまともにできず、クラスのマドンナらしい女に告白されたけどフッたボクはイジメのいい対象。一方、施設では……はじめてのロマンスを経験した。

 十四の頃。ひとつ年上のポーイという男。黒白混血で、頭をコーンロウにしていて、イケメンだったけどガラが悪くてギャングと付き合いがあった。みんな、それぞれの負のオーラを発している男しかいない施設で、ポーイはやたらと陽気に話しかけてきた。そして、ボクを自室に連れ込んで男らしく整った顔を近づけてきた。胸が、高鳴ってしまう。

「やっぱり、お前、男が好きなんだろう?」

 彼は経験豊富なんだろう。見抜かれていた。

「楽しもうぜ」

 口づけられて、入ってくる舌。絡めることで返事をした。ポーイはボクが初体験だとでも思っているのか優しくしてくれる。や、初体験だと言っていいかもしれない。悪戯ではなく、抱かれるのははじめてだ。扱かれて、女のように喘いで出したものをキレイに拭われて、耳元で「愛しているよ、エディ」と囁かれた瞬間、ボクは悲しいわけでなく、泣いた。

 それからボクはポーイと一緒になって、うるさい大人を無視し、学校にはまともに通わなくなり、マリファナを吸った。体を求め合い、愛しあった。

 言われれば、すぐに抱かれた。外で遊んでいるときも、公衆便所でポーイをくわえた。ポーイがどんなにほかで遊んでいても、キスで許してしまう。一回、ポーイが女と浮気したときはキツく問い詰めすぎて、殴られてしまった。ポーイの友達らしい男が住んでいるアパートメントの部屋に連れられて、その男と二人きりにされたとき、レイプされたボクをポーイは優しく慰めてくれた。……ウン、思い出すと心底、ボクは最高にアホだったと感じる。ポーイはあとでその友達から金でも受け取っていただろう。

 先に施設を出たポーイからいっさい音沙汰がなくなってからやっと、あ、べつに求め合っていない、ボクってただの肉便器だったんだな、と悟った。

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