[日常]

 ネオンと喧騒から逸れて、男は裏通りへ入っていった。ありふれたスーツを着た、ありふれた顔立ちをしたサラリーマンの男……華やかな夜にも飽きてしまった様子。男はわざとらしくため息を吐いた。

 家と会社を往復する毎日。可愛かった恋人は家族になるとだんだん冷たくなった。そして、気晴らしに通いはじめたキャバクラ。彼女たちは無個性に徹し、客の望むモノをどれほど演じきられるか競っていることに気がつくと、男は急につまらなくなってしまった。人形と遊んでいるみたいだ、と。

 男はロマンチスト過ぎた。日常のありとあらゆるモノに飽き飽きとしながらもまっすぐ帰らず、こんな寂しい通りに寄り道したのはまだ何かを求めているかららしい。

(ああ、なんてつまらない!)

 汚れた看板、ツタが這っていたり煤けていたりするよくわからない店の壁、明滅している死にかけた電飾……きな臭い道は男を退廃的な気分にさせた。立ち止まり、男は夜空を見上げる。視線の先にはぽっかりと浮かぶ丸い月。

(夜のように、裸になりたい……)

 視線を通りへ戻し、男は眼球の黒い部分を左右に動かした。振り返り、同じことをする。そしてベルトのバックルを外した。

(マダム・エドワルダ!)

 男の趣味は読書。ある世界に憧憬を抱いていた。それは性的に堕落しながらも、どこか哲学的な世界。再び前を向くと、男は最近読んだバタイユの小説の真似をしてスラックスを下ろした。

 濃緑のチェック柄のトランクスを晒し、男は奇妙な高揚感に包まれた。ゆっくりスラックスを足首から取り去る。夜気に脛毛をくすぐられて、男の胸は高鳴った。

 しかし、さすがに理性は捨てきれないらしい。倒錯を夢想しつつも、トランクスまで脱ごうとはしなかった。マダム・エドワルダの主人公は下半身をすっかりむきだしにして、夜と一体化しようとしていたのに。男は周りに人がいないことを確認しても、そこまでは出来ない。手錠の恐怖。……だからこそ男は就職も結婚もすることが出来た。

 あと少し、このささやかな背徳を楽しんだら、男はスラックスを穿くつもりだった。それから冷静になって、客観性を取り戻したら滑稽な自分に気づき赤面したかもしれない。……地下から兎が二匹、路上に出てきていた。変な男を見つけて、近寄ってきていた。

「オニイサン、パンツ出してなにやってんの?」

 ひっ、と声をあげて、男は跳ねるように後ろを向く。おもちゃの黒い兎耳、白い兎耳。おそろいの白金色のボブヘアー。同じ、バービー人形のような顔。黒い兎耳は蹴ったら折れそうな腰に、赤と黒のストライプ柄のコルセットを巻いていた。白い兎耳は色違いで白と黒。

 三人は見つめあったまま、しばらく黙ってしまった。やがて赤黒のバニーが白黒のバニーに何かを耳打ちした。男は二、三度まばたきしてからはっとスラックスを手に取った。今すぐ去りたい。だからお前らも早くどこかに行ってくれ。……と、念じながら灰色の布を握りしめ、固まる男。

 どうやってこの状態から抜け出そうかと焦り、悩む男をバニーたちは人工的な睫毛に囲われた目でただジッと見ていた。

「オニイサン、よかったらアタシたちのお店、遊びこない?」

 赤黒のバニーが言った。

「……え」
「なんかアンタ、ヒマそうだし」

 今度は白黒のバニーが言った。

 お店、という単語で男はこの二人をようやく理解した。何らかの娯楽への呼び込み、商売。ヒマ、という失礼な一言は男を落胆させた。スラックス脱いだ。それがいったい何になるのだろう、と、当たり前なことに気づいてしまったのだ。

 夢想は解けつつあった。けれどもこれでスラックス穿いて、すごすごと退散するのは情けなさを増す。男はバニーをよく見てみた。日本人ではない。うさん臭い。……定型のキャバクラ嬢たちより魅力的かもしれない。

 男は刺激が欲しかったはずだ。

「ぼったくりじゃないだろうな?」
「安酒、定価ね」

 バニー、二人同時に微笑んでみせた。−−どうせ破滅したかった夜だ、いいじゃないか。と、男は夢想を新たにした。

 バニーについて歩き、来た道戻る。男が先程ああ、なんてつまらない、などと心中でぼやきながら通り過ぎたところに小さな看板があった。[ミルクホール]それと、狭い下り階段。

 先に下りていくバニーたちの背中に、男はエドワルダなみの娼婦を期待した。ライトにぼんやりと照らされた階段を、片手にスラックスかけたまま進んでいく。すぐに重厚そうな金属の赤い扉が一同の前に現れた。白黒のバニーが開ける。トランス音楽と狂ったように騒ぐ声が一瞬、外へ漏れた。

 中は市松模様の床、ガラスのテーブル、扉と同じ色のソファー、中央にステージ。

 ステージの上では女が三角形の木馬に乗っていた。つややかなゴムのショーツを穿いた股間が責め苦にあっている。ライトアップされた裸体を反らして、女は悩ましげに呻いていた。その呻き声に混じって響くのは、男女の荒い息遣い。

 それぞれソファー席で遊興を楽しんでいた。ねばつく女陰、口紅のついた男根、アブノーマルに肛門。−−平然としているバニー二人と、トランクス出したまま呆気に取られている男。

(予想以上だ)

 男の想像力は平凡な、かわいいモノだったらしい。現実の背徳に興奮を覚えつつ、恐怖も感じていた。

「ここは変態バーか?」

 おずおず質問してきた男に答えず、バニーたちは子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべ、男の手を引く。

「オニイサンは、アタシたちが相手してあげる!」

 ソファー席に男を間に挟んでバニーたちは座った。ラメで装飾された煌びやかな爪が、トランクスの上から男根を撫でる。

 ふっと、男は自動的に妻の顔を思い出した。……が、それはすぐに周囲の猥褻で猥雑な喘ぎと、木馬を尿で濡らす女の叫びに掻き消される。男はバニーの手に身を任せた。

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