[羽根]

 この白い部屋の天井には、大きな真四角の窓がついている。見上げれば、いつでも空を観賞することが出来た。今は夜空。

 その真下にベビーベッドで、ブランケットに包まれて眠る彼女がいる。先程ミルクを飲ませて、何とか寝かしつけたところだった。安らかな寝顔を眺めながら、ため息を一つ吐く。私はこれから長い時を彼女と過ごす。

 彼女は死刑囚の女の腹から取り出されたらしい。女を母と認識していないうちに、彼女は研究所のこの部屋へ運ばれてきた。

 私は彼女をある実験に基づいて育てるという、重要な役割を任せられている。つまり彼女は実験台。

 あまり気乗りしない仕事だ。体が治ったばかりなのに。だが、仕方ない。眼鏡を外して白衣を脱ぐと、座っていたソファーベッドに寝転び、瞼を閉じた。


 翌日。研究員たちから渡されたミルクとオシメで、彼女の世話をする。赤子の世話というのは予想していたより大変なもので、彼女が泣き出すたび戸惑ってしまった。あと、私がしなければならないことはもう一つ。これはミルクやオシメに比べたら、楽に感じた。が、慎重さを要する。

 彼女を抱き上げるとテレビの前に座って、電源を点けた。映るのは木の枝に止まり、羽根を休めている鳥の映像。青い羽根が何とも美しい。彼女はじっと、画面の中の鳥を凝視している。一瞬後、鳥は羽ばたいて飛んでいった。画面はそれを追いかけるように、大空へ消えていく鳥を映す。私は彼女の耳元で囁いた。

「あれは、鳥」
「……」
「あんな風に、空を飛べるんだ」
「……」
「美しいだろう? 君もいつか、羽根がはえて鳥になるんだ」
「……」
「君は鳥だ」

 彼女に「自分は鳥である」と思い込ませること。それが、実験の内容だった。

 このテレビは鳥の映像しか映し出さない。テレビの他には、鳥の図鑑や鳥の写真集などを見せて教育した。

 彼女はキャッキャッと笑いながら、小さな手のひらで鳥の写真を叩いて遊んでいる。強い興味を持ったようだ。私はひたすら「君は鳥だ」と、彼女に教え続ける。

 鳥以外の余計な知識は、間違っても与えないように細心の注意を払った。彼女が自分は人間だと自覚してしまった瞬間、この実験は失敗に終わる。

 彼女が赤子のうちに刷り込んでいく。実験の結果は彼女が成長すれば、わかることだ。

 こんな風に私は彼女を育てていった。彼女が初めて発した言葉は「トリ」。喋れるようになっても、口数は少ない子だった。でも暗い訳ではない。よく笑い、よくはしゃぐ子だ。

 彼女の体がベビーベッドに合わなくなれば、ベビーベッドは片づけて、彼女は私と一緒にソファーベッドで眠るようになった。彼女は私に抱きついて、甘えてくる。

 トイレの仕方は人間的過ぎるから、教えなかった。彼女はこの先、オシメを外すことは出来ない。

 彼女の食事はミルクから、食用ミミズに変えていた。

 自分で動き回れるくらいになると、あの窓の下で彼女は昼の光を浴び、微笑みながらぴょんぴょん跳び回る。お気に入りの遊びらしい。


 彼女が赤子から子供くらいに成長して、わかったことがある。それは、彼女は美しい少女だということ。色素の薄い茶色い髪はやわらかく、彫りの深い顔立ちをしていた。

 彼女は今、窓の下に突っ立って空を見上げている。私はソファーベッドに座って、そんな彼女を眺めていた。そろそろ昼食にしようと、食用ミミズが一杯に詰め込まれたビニール袋を取る。

 鳥らしい食事だろう。研究員たちが飼育して、ちゃんと泥抜き処理もしたミミズ。ビニール袋の縛り口をほどいて、中に手を突っ込んだ。

 一掴み、ミミズを取り出すと彼女を呼ぶ。

「おいで」

 彼女は空から目を離し、私の方へ顔を向けると、表情をぱあっと輝かせて走り寄ってきた。

「……エサ!」

 彼女は私の膝へと乗りかかり、腕を私の首に回して顔を近づけてくる。私はミミズを一口、含んだ。

 ヌメヌメとした舌触り。味はほとんどしなかった。彼女の後頭部に片手を這わせて、エサをねだるその唇を塞いだ。

 唾液と一緒に、どろどろになったミミズを彼女の口内へ流し込む。彼女は喉をゴクンと鳴らして、飲み下す。私がもう一口、ミミズを含むと今度は彼女から口づけてきて、生温かい舌が口の中で動き回った。

 私の唇と彼女の唇の間で、唾液とミミズが糸を引いている。彼女はビニール袋のミミズを半分ほど減らして、私はその残りを食べた。

 そして、彼女とテレビを見る。画面は白鳥の姿を映し出していた。彼女はテレビに眺め入っている。少しして、悪臭がしたから彼女のオシメを替えた。

 日暮れには夕食を済ませて、洗面所へ入った。オレンジ色の石鹸が一つだけ置いてある洗面台と、簡素な脱衣所。それに隣接しているのはシャワー室。二人して裸になると、狭いシャワー室に彼女を先に入らせてから、私もやや無理をして入る。窮屈だ。シャワーのコックを捻ると頭上から降る、お湯の雫。

 私はぼうっと彼女の濡れていく、浮き出た肩甲骨を見ていた。

 シャワーを浴び終える。脱衣所で彼女の体と髪を丁寧にタオルで拭いて、オシメを穿かせた。前身頃から続く布を首の後ろで結ぶ、背中の出る型の白いワンピースを着せる。私も衣服を身に纏うと、彼女と一緒に洗面所から出た。

 テレビを点けて、彼女が夢中になって見ている間に、今日出た汚れものとゴミを分けて袋に入れた。それを持つとドアの鍵を開けて、廊下に出る。忘れずに鍵はかけ直した。このドアは内側と外側の両方に鍵穴があり、開けることが出来るのはいつも白衣のポケットに鍵を入れている私だけだ。

 廊下はしんとしている。並ぶ窓の向こうは薄暗く、もう日が落ちていた。遠くに見えるのは灯台の明かり。

 ある研究員の部屋を目指して歩き出す。途中で腰の辺りから、私を呼び止める声が聞こえた。子供のような、甲高い声。

「ゴミか? 洗濯か?」
「……両方です」

 立ち止まって振り返ると、視線を下へ向ける。禿げ上がった頭頂部が見えた。ゆっくりとその頭が後ろに傾き、顔が上がる。ぎょろぎょろとした落ち着きのない目。

 彼の顔立ちは、とうに成人を過ぎた中年のものだ。目元と口元に深い皺を刻んでいる。それでいて不均衡にも身長が百センチほどしかなく、自分の寸法に合わせた短い白衣を纏っていた。私は彼の部屋へ向かうところだった。手間が省けた。

 屈んで彼と視線を合わせると、袋を両手に手渡す。すると、彼はこんな質問をしてきた。

「娘、羽根はえたか?」
「いえ、まだ全然」

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